そういうわけで、家から遠い私立高校へ電車通学することとなりました。朝は満員電車で大変でした。比叡山高校の準特進クラスがあってそこのクラスでした。膳所や洛南を落ちてきた人がほとんどでした。私は3年間同じクラスでした。特進クラスはあるのですが、そこは専願のクラスです。現在は特進、準特進クラスではなく、1類、2類、3類となっています。 部活は入っても入らなくてもいい学校でした。クラスの大半の人は帰宅部でした。私も家から遠いのと中学で運動部が嫌になったのと勉強しないといけなかったので部活は入りませんでした。が、のちに2年生の頃に友人に誘われて生徒会に1年ほど在籍しました。これが遊んだり相談したりイベントのたびに皆で何かをやったりといい思い出でした。 1年生から駿台予備校に週3回ほど通っていました。同級生でも通っている人は多かったです。あまり覚えていないですが、たしかにわかりやすかったとは思います。高校は勉強の中身が難しくなり量が多くなったのを覚えています。中学と同じ3年間であれを全部習得するのは非常にきついですね。学ぶ量を比で表すと中学:高校=1:4くらいあるのではないかと思います。そんなこんなで1年の終りに今の準特進に残るかどうかの選抜テストがあり、友人の何人かは別のクラスへ行ってしまいました。私はそのクラスに残ったままでした。入れ替わりに新たにクラスに入ってきた人も何人かいました。少人数ですがクラスの入れ替わりが起こりました。たしかこのあたりで文系か理系かを選択する機会があったように覚えています。社会が得意だったので文系を選択しました。が、今から振り返ると理系の勉強を一通りしてみてちょっと違うなと思ったら文転すればよかったです。 2年になって、マイペースに勉強はしていたので定期テストはいつも1桁の順位でした。2年の実力テストでは英語と数学ともに1位で総合1位だったのを覚えています。学校の中では成績は良かったのですが、それはあくまで中堅の私立高校の内部でよかったというだけでした。 高校2年の夏に学校でのホームステイプログラムがあり応募してアメリカのシアトルへ行きました。高校生20人ほど一緒でした。私にとって初の海外でした。アメリカの個人の家に家族のようにホームステイさせてもらえました。これは確かにいい経験でした。アメリカは何もかも大きな国だった印象を持っています。片言の英語ですがわかってもらえましたし、ある程度ですが英語もほめてもらえました。一緒に行った日本人とも仲良くやれたしここでは悪いことはありませんでした。アメリカの学校へ午前中行ってちょっと勉強して、昼からはいろんな場所へ連れて行ってもらえました。スポーツ観戦、プラネタリウム、映画鑑賞、外での遊びなど。密度の高い夏でした。 で、日本に帰ってきて学校生活に戻ります。学校の授業と勉強、生徒会の仕事、駿台での勉強に戻りました。家ではCDを聴きながら勉強したり、合間にゲームしたり漫画を読んだりしていました。スト2が流行った頃でした。女の人も含め一緒にアメリカへ行った人と仲良くなって少しだけ遊んだこともありました。それなりにいい思い出ではあります。こうして元の生活に戻ってきました。 そうして、3年生になり、大学入試を迎える学年になりました。高校の3年間は密度が高いです。国立文系コースに在籍していたので数学も化学もまだ勉強していました。夏には学校では野球部が甲子園出場していましたが、あまり私には関係ない出来事でした。たんたんと勉強して生活をしていたのですが、センター試験もあまりぱっとしない成績で、この年の大学入試は落ちていしまいました。大阪大学法学部と同志社大学法学部の2つを受けて2つとも落ちてしまいました。こうして浪人することなりました。
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